30日から、OB会のクラブセンターは新聞、テレビの取材で電話は鳴りっぱなしです。奥大使の死去について、早稲田ラグビーのOB会としてどのように対処するのかなど、奥さんに関しての問い合わせが殺到しました。
いち早く、清宮監督がこの早稲田ラグビーのホームページにお悔やみを発表してくれ、OB会広報部会としても、奥克彦さんを偲んで、OB諸氏からそれぞれの思い出の言葉を寄せていただくことをホームページに出すと、一段と加熱しました。以下は、到着順に掲載させていただきました。
<菅平で、突然の退部願い>
白井 善三郎 (S30年卒)
昭和53年度、ひところの黄金時代が終わり、戦力的にも厳しい時代に、私は3回目の監督を引き受けた。主将が橋本裕幸君、副将に広野真一君で、奥克彦君は2年生で、主にFBのプレイヤーとして活躍していた。
菅平合宿の中日前の昼の休憩時間だったと記憶しているが、「話を聞いて欲しい」と突然、奥君が申し入れてきた。彼は「本日で退部して山を降りたい、理由は高校時代からの目標である外交官になるために、外交官試験の勉強に集中していきたい」ということだった。
この年は春のシーズンの締めくくりに北海道遠征を行い、奥君は、そのメンバーにも選ばれていた。将来を期待していたので、ずいぶん説得をしたけれど決意は固かった。私は止む無く了承して「部員には、私から話すから、午後の練習が始まった時に、山を降りてくれ」と言って別れた。
それから4~5年が過ぎたころ、オックスフォードから一通の手紙が来た。差出人は奥克彦君だった。「監督、敢えて監督と言わせていただきます…」で、始まり「外交官試験の猛勉強の結果、外務省に入って現在オックスフォード大学に留学、そこでラグビー生活」を等々報告してくれた。
そのとき彼がどうしても悔やんでいたのは、「自分が早稲田ラグビーを断念して山を降りた」ことだった。そこで私は「君は念願の外交官となり、オックスフォード大学に留学し、ラグビーの本場でプレイできるなんて、ラグビーで日本一になるより難しいぞ、それを実現した君は凄いよ」と、激励したことを覚えている。
それから帰国後、又、海外での勤務の間にも多忙な中、早稲田ラグビーをはじめ日本ラグビー協会、国会議員ラグビーチームのお世話など、気さくに貢献してくれた。
奥君の英国大使館での仕事は、文化広報の仕事と聞いていた。そんな彼がイラクで戦争の犠牲になり、こんな結末を迎えるなんて残念、無念、ご冥福を心からお祈りいたします。
<原点を見つめ直す機会を彼が与えてくれた>
宿沢 広朗 (S48年卒)
英国勤務をしていた頃、突然奥君から電話があって「外務省に入り、オックスフォード大に留学できた」とのこと。それ以来、彼が帰国するまで家族ぐるみの付き合いとなった。ラグビー部を退部したことも、その志も知っていたが、英国に来て真っ先に連絡があったことがうれしかった。
早稲田ラグビーは、ただ強いだけでは駄目だ。ラグビーを含む各分野で、リーダーとして活躍する人を輩出してこそ、クラブの価値がある。奥君の殉職に接し、改めて原点を見つめ直す機会を彼が与えてくれたと思っている。
<奥克彦君の壮絶な戦死を悼む>
日比野 弘 (S33年卒)
君との付合いは、昭和54年に白井監督のもとでコーチを務めたとき以来20年を超えた。早稲田の英国遠征などに激務を割いて、世界の各地から激励に飛んできてくれる君と飲み交わす酒の味は格別だった。その酒も昨年の4月3日、ロンドンの居酒屋「酔処」が最後となってしまった。
君はその日ロンドンに着いたばかりの真一郎君を連れていて、ロンドンに転校させるか、東京に残すか迷っていると話した。時差の影響で座ったまま居眠りを始めた真一郎君を見かねて私が帰宅を促すと、いつもの笑顔で「あのまま寝かしとけば大丈夫ですよ」と、日本のラグビーの将来を熱く語るのをやめなかった。
君は豪放磊落であり、同時に優しさと繊細さを併せ持っていた。「部をやめたのは悔いが残る」と時折漏らしていたが、オックスフォード大学で公式試合に出た初めての日本人となった君は、我々より熱いラガーマンの血を持った男に成長していた。だからこそ危険をいとわず、身を殺してチームのために貢献する道を迷わずに選んだのだろう。
テロの凶弾を浴びた彼は、病院へ搬入されたときは生きていたという。医師が聞き取れなかったという彼の最後の言葉は、きっと愛する家族の名前だっただろう。グラウンド一杯に展開する後輩たちのエンジと黒のジャージーも心によぎったかもしれない。君の志は後輩たちに受け継がれ、我々の心に生き続ける。
「夫の成し遂げた仕事を誇りに思います」恵美子夫人のすばらしい言葉に新たな涙を流し、深い悲しみと、やりようのない怒りをもっていま君に別れを告げる。君こそ真のラガーマンだと称えながら。
<ワセダだからできるんですよ! と奥先輩>
清宮 克幸 (監督・H2年卒)
「おい、キヨ! それじゃちょっとつまんなくない?」「ワセダならこうでしょ」「キヨならこうしなきゃ!」「ワセダだからできるんですよ!」早稲田ラグビーをこよなく愛し、いつも私を、最大限のパワーで助言してくれた奥さん。そのポジティブな考えと行動、情熱は私のお手本でした。
「今、何をすべきか」「新しいことにチャレンジし続けること」「良き伝統の継承」。奥さんから授かった「現在」「未来」「伝統」は私の教科書です。
この「奥スピリット」は早稲田ラグビーに永遠に語り継がれ、そして私は、それを貴方に負けない情熱で支えていきます。
天国でも熱く観戦していてくださいね。奥さん!
<世界から、日本を見てみろ!!>
益子 俊志 (S58年卒)
96年、大学から短期留学の許可を頂き、行き先を天候の良いオーストラリアかラグビーの母国英国にしようか迷っていた。奥さんとお会いして相談すると、英国の文化、オックスフォードの歴史等の話を聞き、これはラグビーを知るにはオックスフォード以外ないと決めた。
‘97年3月に早稲田大学の英国遠征があり、仕事で遅れて合流する奥さんと留学の調整に英国に出発した。奥さんは成田空港で「これは誰のだ」と言いながら、お土産用の日本酒を10本買って飛行機に乗り込んだ。機内で昔の話や今後の事で盛り上り、ヒースロー空港に到着したときは、残り3本になってしまった。オックスフォードで監督のスティーブ・ヒルに「益子を頼む」とお願いして頂き、9月からの留学が決まった。
オックスフォード大学は非常に格式を重んじ、簡単にはよそ者は受け入れてくれない体質がある。もし、オックスフォード大ラグビー部OBの奥さんの紹介が無ければ、門前払いであっただろう。9月に不安な気持ちで一人英国に旅立ったが、クラブの一員として認めてもらい、アイルランドのプレツアーも同行し、メンバーと早く慣れるだろうと、直前合宿は選手と一緒にカッレジの宿舎で生活させてくれた。(全く英語の喋れない自分は泣きそうだったが)
その後シーズン中の試合はすべて帯同したが、なんと言ってもケンブリッジ大学とのバーシティマッチであろう。3日前からロンドンに入り、記録係としてグランドレベルでサポートする事ができた。このようなかけがえの無い経験ができたのも、すべて奥克彦という人間がいなかったら実現しなかったのである。
奥さんは常々、「世界から日本を見てみろ、俺もまだ90数カ国しか行ってないけど、物の考え方、目線が変わるぞ」と言っていた。私自身も、ラグビーの奥の深さ、練習の取組み方、そして文化と歴史、全てが心洗われるようで新鮮だった。
数年前、ゴルフに行くのにお迎えに上がったとき、6時の待ち合わせだったが、なかなか起きてこないので電話で起こしたら、役所で3時まで仕事をしていたらしい。また六本木で飲んでいたときも、夜中に歩道でおもむろに携帯を取り出し、ニューヨークの国連大使と話し始めた時には、この人はスーパーマンかと思った。こんな忙しい中でも、どんな後輩でも優しく、時には厳しくアドバイスし、ラグビーをこよなく愛し、本当にジェントルマンという言葉がぴったりだった。
今回のイラクのミッションでも、日本、世界のためではなく、心底、イラクの人々のために頑張っていた。私はそう確信している。
未だ、奥さんの死を現実のものとして受け入れられないが、伝説になるであろう心優しき大男に敬意と哀悼の意を表したいと思います。
合 掌
<菅平まで、愚息のプレイを見に来てくれた君>
垣内 克彦 (S56年卒・同期)
昭和52年、同じ夢を抱いて早稲田大学ラグビー部に入部し、激しい練習やつらい仕事を一緒にやりましたね。同時に貴兄は外交官になる想いも強く猛勉強の末、4年次に上級職の難関を突破され流石貴兄と思いました。
近い話では一昨年、私の長男が高校1年生の夏合宿時に一遍みろといって、菅平まで愚息を見に来てくださったこと、その時に同期の奥脇主将以下、長沼君、鬼沢君と一緒に過ごしたことが思い出されます。
また、つい先日知人のロンドンでの就職活動に際し、アドバイスしてくださり、貴兄には心からこれまでの温情に感謝申し上げます。ありがとうございました。奥克彦大兄、どうぞ安らかにご帰天ください。
<OB会に入会した時、あの笑顔が忘れられない>
鬼澤 俊昭 (S56年卒・同期)
奥君、狂気の銃弾の前に倒れるとは、只々無念でなりません。君と僕とは昭和52年早稲田ラグビー部に入部した同期の桜。ワセダの練習は想像以上のものでした。
こんな中でも君は外交官になるべく、キチッと講義に出席し、その予習、復習でも大変なのに、先輩方から頼まれた語学の宿題にも積極的に取り組みましたね。また、OB会への入会を認められた時の嬉しそうな、少年のような純粋な瞳が忘れられません。どうぞ奥君、安らかにお眠り下さい。
<クレバーな熱いラガーマンへ>
高野 敬一郎 (S56年卒・同期・上海で)
突然の今井からのニュースを聞いて信じられなかった。ラグビー部同期だったお前は、ポジションはFBとフロントローでまるっきりちがうけど、1年の時から波長があっていた気がするよ。
お互い海外勤務経験があったこともあり、日本協会の手伝いも関係したりで、卒業してからも離れていても、メールでのコミュニケーションが取れていたので、俺には本当にショックだった。
たしか俺がBKK駐在時代も奥の1泊2日のBKK出張の際も、深夜にもかかわらず、わざわざ会いにきてくれたり、本当に思いやりのあるいい奴でした。
大学2年のとき、北海道遠征に一緒にメンバーに選ばれて遠征したのが、今でも印象に残っている。当時で言えば、現在上海に赴任している植山先輩2世だといわれ、クレバーな熱いラガーマンだったね。
俺はいつも気取らず、それでいて仕事に対しても、ラグビーに対しても熱い情熱を前に出すお前が好きだった。
外交官としても、ラグビーにとっても大きな損失だと感じている。俺は、奥の意思を継いで、これからの人生、ラグビーをできる尊さを胸に秘め、広報活動に務めるつもりだ。
最後になるけど「イラク復興支援」は、現地で危機に直面しながら粉骨砕身、最後まで貫いたおまえの『強い意志』だと仲間はよくわかってるよ。
どうぞ安らかに、天国で思いっきりキックしているお前が眼に浮かぶよ。
<奥へ 別れの言葉>
荒木 博和 (S56年卒・同期)
人の気持ちが分かる男でした。体調を崩し、「うつ」ぎみだった僕を陰で心配してくれていました。
ありがとう。今、元気になってやっています。
悔しかったでしょう。奥の分もしっかり生きていきます。
<同じポジションだったよなぁ>
田尻 達美 (S56年卒・同期)
日曜日の朝、突然悲しい知らせを聞き私も大変ショックでした。
彼の退部後は交友はありませんでしたが、OB会報などで元気に活躍しているニュースを拝見しておりました。
同じポジションだったので、奥君とキックやフィールディングの練習をよくやったことが思い出されます。謹んでご冥福をお祈りします。
<奥 克彦へ>
寺田 ゆう (S56年卒・同期)
突然の訃報で言葉もありません。
1年の時にいっしょにグラウンド整備をしたり、シボリの後みんなで語り合ったのが、昨日の事のように思い出されます。
仕事は同僚が引き継いでくれるでしょうが、子供さんたちの成長を途中までしか見届けられなかったのはさぞかし無念でしょう。
天国からご家族の成長を見守ってあげてください。そして安らかにお休み下さい。ここに謹んでご冥福を祈ります。
<大西元監督から「ジャパンに育てろ!!」>
小林 正幸 (S46年卒)
私がコーチ時代の52年に奥君は入ってきた。花園に出場したとはいえ、無名に近い兵庫県の伊丹高校。当時としては、大型FBで珍しい左利きの選手、ロングキックには目を見張らされた。私もキックには自信はあったが、彼のキック力は魅力があり、ハーフウエイとゴールラインを挟んで練習したものだ。
練習ゲームがはじまると資質の大きさは増すばかり。FBが一番要求される状況判断に加えてのハードタックルだ。これを見た大西鐵之祐さんが「オイ!小林、これはジャパンのFBになるぞ。植山二世を作ってくれ。お前に任せたぞ!!」と言われたことを思い出す。
早稲田での志は半ばになったが、奥君は自分の努力でラグビーの本場オックスフォード大学で、日本人として第一号の代表選手となり、大輪の花を咲かせてくれた。
<今の自分より、高みを目指せ!>
中村 義徳 (H14年卒・HO)
奥さんの訃報に接し、怒りと悲しみで、なんと言っていいか分かりません。一番強く印象に残っているのは、私が4年時の新歓試合前の言葉です。1年生への檄と共に、部員に対し「常に今の自分より高みを目指し、とことん考え、今しかできない事に死力を尽くせ」と仰いました。
この時の話は、生涯忘れることは出来ません。奥さんは、それを見事に体現されました。今は安らかにお眠りください。本当にお疲れ様でした。
<社会に出て、教わった>
西谷 毅 (H1年卒)
在学中に、お会いする機会はありませんでしたが、卒業から10年近く経った1998年、某国に対する経済協力に関する外務省・輪銀間の協議で、それぞれからの出席者として初めてお会いしました。
協議の後、本音ベースの話ができないかと恐る恐るお電話したら、私相手に長時間の議論に付き合ってくださいました。その際の、難局であっても逃げずに正対され、果敢な行動力をもって臨まれていたお姿が心に焼き付いています。安らかに永眠されるようお祈りいたします。
<奥先輩の死、早稲田は、その使命を再確認すべきだ>
安田 真人 (S59年卒)
奥先輩は、私が早稲田大学高等学院1年の時の大学1年です。同じFBというポジションで、東伏見でキックを教わったことを思い出します。英国留学中にも、大学の英国遠征の際に食事を一緒にさせていただきました。
そのとき強く熱い気持ちを伺い、こういう人が本当のナショナルリーダーなんだと感じました。
その奥先輩の死を聞いて、もう一度早稲田大学ラグビー部は、その使命を再確認すべきだと強く考えましたので、独り言ではありますが、ここに示させていただきます。
<沖縄では、エイサーも踊った>
小菅 爾郎 (H2年卒)
奥さんにお会いしたのは名護サミットのときでした。忙しい合間をぬって名護高校ラグビー部の練習にかけつけてくれました。わずかな時間でしたが、真剣な眼差しと迫力ある声、洋服のまま指導していた光景が忘れられません。
夜、名護のラグビー関係者のたまり場“のれん”で楽しい時間を朝まで過ごしました。カツラをかぶって即興エイサーを踊った奥さん、明け方に大型観光バスでみんな帰った珍事など、名護にも奥さんの思い出が一杯です。
<偉大なる先輩、熟練のテクニックを北風祭で>
小山 義弘 (コーチ・H5年卒)
奥さん、92年英国遠征以来のお付き合いですね。98年夏のAUS合宿、最高でした。北風祭で共に熟練のテクニックを披露しましたね。まるで昨日の事のようです。
仕事のアドバイス、ありがとうございます。ゴルフ・マージャン、本当に楽しかったです。奥さんの、我々後輩に対しても何時でも欠かさぬ笑顔・気
配りは決して忘れることなく、継承して行きます。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
<豪放磊落、包容力>
池田 剛人 (H11年卒)
98年の7月、豪州遠征でお世話になりました。
「奥でーす!」と豪放磊落、かつ包容力のある人でした。ただただ残念です。心よりご冥福をお祈りします。
<真の勇気とは、何か!!>
山本 巧 (S61年卒)
高田馬場で飲んでいた時のことだったと記憶している。「外務省の若い奴に必要なのは早稲田ラグビーの精神だ」と奥さんが言っていたことを思い出す。私には「真の勇気とは何か」という問いに聞こえた。この奥さんの言葉を問い続けながら、防衛大学校の学生にラグビーを教えたい。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
<面倒見よい、オックスフォードの大先輩>
西岡 晃洋 (H9年卒)
私の英国滞在中には奥さんには本当にお世話になりました。よくメールや電話もいただき、いつも気に掛けていただきました。お会いさせて頂いた時はいつも歯切れの良い話で、楽しい時間をすごさせてもらいました。豪快でいて、繊細な面も併せ持ったとても尊敬できる方でした。全くご恩を返せなかったのが本当に残念です。
<ALL FOR ONE、ONE FOR ALL>
池田 剛 (S59年卒)
ロンドンに勤務していた宿沢さんと奥さんのアレンジで、卒業前にハーレクインズでプレーする機会を設定していただきました。
留学中でお忙しい身なのに、滞在期間中は食事や観光に連れていって頂き大変お世話になりました。
その時受けた奥さんの印象は、何事にも手を抜かず前向きで、そして常に紳士的であることです。たとえ一人の後輩でも自然を面倒を見る。
早稲田ラグビー部に対しても、日本ラグビー界に対しても、正に「ALL FOR ONE、ONE FOR ALL」の精神でサポートされてきました。
そしてお仕事では日本の国のために、その精神を全うされました。奥さんの志を考えると、ラグビーの試合ならまだハーフタイム。人生のレフェリーが神様だとしたら、奥さんの人生の「ONSIDE」は明らかにミスジャッジです。
日本を代表する激務、本当にお疲れ様でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
<ここにトライしたんだ!>
手塚 綾子 (H11年卒・旧姓村上)
創部80周年のアイルランド&イギリス遠征でお世話になった奥さんは、豪快な笑い声と繊細な気配りで、ツアーの成功にご尽力くださいました。
スタッフとしての拙い点をたくさん指摘され、21歳の弱小マネジャーには、とても厳しい方に感じましたが、「ブルーを着て、ここにトライしたんだ!」と懐かしそうにグラウンドに立った姿は、ラグビーを心から愛する少年のようでした。多岐にわたり、すばらしいご活躍をされた先輩を持ったことを、私は大変誇りに思います。
<夏合宿中も、英会話の勉強をしていた>
広野 真一 (S54年卒)
食う、寝る、走る、の繰り返しの菅平。皆がひたすら眠る中で、1年生・奥克彦は部屋の隅でイヤホンをあて、英会話と格闘していました。「外交官になりたいのです」。照れながらも彼はハッキリと答えました。
昨年、オックスフォード大とのパーティで司会を務める奥に、英語、上手くなったな~」と茶化すと、「西岡(オックスフォード大在学中)の方が上手いですよ!」と真顔で答えました。どこまでも、どこまでも謙虚な男でした。
<イラン大使館に骨のある外交官がいる>
森島 光弘 (コーチ・H2年卒)
オール早稲田で遠征したときは決まってお世話してもらいました。アフターファンクションの挨拶を通訳する流暢な英語。きちんとメモを取りながら正確に、そして格調高かった。
また当方がテヘラン駐在時代に「イラン大使館に骨のある外交官がいた」と昔話をする会社の上司の話を紐解くと偶然それが奥さんであり、誇らしい気持ちになったものです。憧れの先輩。安らかにお眠り下さい。
<主務の仕事を教えていただきました>
竹内 大 (H14年卒・主務)
イングランド遠征時、主務として未熟で、全く何も知らない、そして英語も話せない私に数々のアドバイスを本当に有難うございました。奥さんのお陰で私は本当に心強かったです。オックスフォード戦をご覧に一度日本に来られた際のお元気な姿、良く覚えています。本当に色々有難うございました。
オーストラリアにいるため残念ながら葬儀には出席出来ませんが、心よりご冥福をお祈り致します。
<信念を持って臨む>
永田 隆憲 (S63年卒)
奥さんとの出会いは3年生の時、キャプテンに指名された直後のアイルランド遠征でした。遠征先のホテルで酒を酌み交わしながら、信念を持って臨むように、とアドバイスをいただいたことが昨日のように思い出されます。その時奥さんの熱い語り口は今も忘れられません。奥さんのご冥福を心からお祈りいたします。
Mr Katsuhiko Oku (Oku Memorial Meeting)
Reg Clark
(※レジ・クラークさんは、昨年の上井草オープニングゲームに、オックスフォード大学クラブの代表としてご招待しています。)
Our dear friend, Katsuhiko Oku, was tragically one of two diplomats killednear Tikrit in Iraq on Saturday 29th November.
There will be an informal gathering to honour his memory and celebrate hislife on Monday 8th December in the Milne Room of the Garrick Club, GarrickStreet,London WC2 from 12:30pm-2:00pm.
Please join us.
我々の親愛なる友人である奥 克彦氏は、11月29日(土)イラクのティクリットで、悲劇的に殺害された2人の外交官の1人でした。
12月8日(月)ロンドンWC2ギャリックストーリー ギャリッククラブのMILNCルームで、彼の人生と想い出を偲んで、非公式ではありますが、集まりたいと思います。
ご参加下さい。
<奥君、実は私の講義を受けていた>
佐藤 英善 (ラグビー部長)
6日の奥、井ノ上ご両家と外務省の合同葬儀で、益子さんが「先生、奥さんは先生の講義を受けていたんだそうですね」と聞かれた。私から言うのもちょっと気になるので、控えていたが棺を担ぐ人たちの前での発言だっただけに、この経過を報告しよう。
53年~54年の1年半だったと思うが、上級試験を受けるために、私の講義を二つ、政治経済学部の彼が、法学部の講義を聴講にきていた。一つが、法学部行政法学、もう一つは公務員講座の法職課程である。
彼の受講態度は、実に熱心だったことと、身体が大きくて色白で端正、その上、礼儀正しかったので憶えている。
「テキストは、どんなものがいいですか?」と聞きに来たので「時間的にも、今からならコンパクトなものがいいだろう」と、ちょうど私が書いた本が、彼の要求に適していたので推薦した。私としては最初の本だっただけに印象に残っている。
私がラグビー部長になって、再会した時、「実は、先生の講義を受けて、念願の外交官になりました。その節はお世話になりました」とあいさつされた。私も忘れるはずがない。
教職にあるものにとっては、卒業後、教え子と語り合ったり、酒を酌み交わしたりすることは至福の時である。社会に出た彼らから、逆に教わることもある。教師冥利に尽きるとはこのことだ。
02年の英国遠征の時には、すっかりお世話になり、彼の活躍ぶりには大いに安心もし、早稲田ラグビーは、大変な財産を持っているものだと、改めて認識した。
<笑顔が最高の紳士>
辻 高志 (H11年卒)
『紳士』まさに奥さんを表現するのにピッタリの言葉だと思います。正義感が強く、誰にでも優しい方でした。笑顔が最高でした。英語も堪能で「この様な人になりたい」と本気で思っていました。尊敬しています。
最後までイラクの平和を願っていたと聞きます。世界には色々な文化があり、どれが正しいかだなんてことはありえないと思います。でも、人を殺すことが許される文化なんてあるわけが無い!!
世界平和。 心から願っています。
奥さん、そして一緒に亡くなられた井ノ上さん、安らかにお眠りください。
(12月22日、追加)
<夢はいっぱいあるよ>
渡邊 隆 (S57年卒)
「逃げるな!向かっていけ!」1年の春。インターバルの合間、樹の陰の下でぜえぜえと下を向いていた1年を日向に引きずり出して彼はこう言った。初めてワセダの魂に触れた瞬間であった。そして20年ぶりに会ったOB会であの頃の話をしたら「あの時の様子は鮮明に覚えているよ」と。
1年の夏合宿。朝練と午後練の間、皆寮で寝ている時間、一人、上のグランドでケガ人にタックルマシーンを持たせて延々(しかも縦を)猛然とタックルをしていた白いジャージの足の長い細身の外人のような男がいた。あの時のタックルの角度と全身からほとばしる悔しさが、今もボクの身体の中に残っている。
そして彼は山を降りた。今にして思えば、あの果てしなく続いたタックルがワセダラグビーとの決別を意味していた。
そして彼は、言葉通り外交官になった。
数年前のOB会「奥さん、夢は何ですか?」と尋ねたら「ドス夢はいっぱいあるよ!」例の快活で今にも身体が前に進みそうな、主体的でポジティブな、これが奥さんとの最期の会話になった。
清宮監督等々が提唱する「奥基金」。奥さんは何を思い、何を目指し、そして今、何を望んでいるんだろうか。奥さんの愛妻が葬儀の後、大西先生のアヤさんに「今頃、大西先生とお話をしてますよね。」と言ったという。大西先生が生前、提唱されていた、「SocialForces」(闘争の倫理、フェアの精神、スポーツマンシップなどをコンセンサスとした社会的な勢力。そして権力者が戦争に持ち込もうとする時に、その人々の抵抗の環で、平和などをまもる力。)
ラグビーの根幹をなすスピリット「自己犠牲」を全身で伝えていった奥さん。
それは、ワセダの範疇に留まらず、Oxfordしかり、世界中のラグビーを志したフェローに声をかけ、奥さんの壮絶な遺志を、混沌を極める現代の指針とすべく、地球規模でのラガーの「考える基金」的なものにしてはどうだろうか。金銭を出し合うことだけではなく、これから歩む世界のあるべき姿を一人一人が考えること、そしてその意見を発信すること、そしてコミュニティー、身近なクラブや会社や社会で、何ができるかを考えること。
Fairとは何か?Nosideとは何か?Oneforall.allforone.の世界とは何か?ラグビーにはこのような、社会にとって失ってはいけない大切なフィロソフィーがあることを、大西先生はラグビーの研究者としての深い洞察から感じ取っておられた。ラグビーを一競技として終わらせること無く、奥さんの魂を、ラグビーに携わった多くの同志で継承し思いを深めていかなければならないと想う。