早稲田大学ラグビー蹴球部に所属する2~4年生の選手・スタッフが相互インタビューで理解を深める連載企画、第38回は吉松立志(3年・WTB・高鍋)。
取材:植野智也 構成:早稲田大学ラグビー蹴球部広報 写真:鳥越裕貴
挑戦する気持ちさえあれば拒まない。
「来るもの拒まず、去る者追わず」早稲田大学ラグビー部には様々な経歴、個性を持った選手がチャレンジする。新人練という試練を乗り越えた者の入部を拒むことはない。ここにもひとり、人とは少し遅れる形とはなったが早稲田ラグビーで挑戦し続ける人間がいる。早稲田大学ラグビー蹴球部3年吉松立志である。
吉松は幼い頃に父に連れられラグビーを始めた。それから彼の人生はラグビーに染まった。中学2年生で父に連れられて観た早慶戦をきっかけに、自分もあの場所に立ちたいという思いから早稲田ラグビーを目指し始めた。それから彼は宮崎県のラグビー強豪校である高鍋高校に進学した。しかしながら、彼は高校に入ってから挫折を経験することになる。
高校2年の時、当時早稲田大学ラグビー蹴球部が開催していた九州キャラバンに参加した。早稲田ラグビーを目指す九州の学生たちが集合し実際に早稲田の選手から指導を受ける。当時の彼にとっては非常に貴重な経験だったであろう。しかしその時の彼が感じたのは自分の限界だったという。早稲田の選手はもちろんのこと、早稲田ラグビーを目指す周りの選手たちも非常にスキルが高く劣等感を強く抱いた。この時から彼は、ラグビーは高校で終わりにしようと考えるようになる。
早稲田ラグビーに対する憧れが早稲田大学に対する憧れに変化していった。しかしながら、彼の目の前にあるラグビーに対する情熱が冷めたわけではない。高校3年生では花園に出場した。結果は2回戦で関西の強豪・京都成章高校に敗戦することとなる。この結果が、彼が以前から感じていた自分の限界をさらに強いものとさせ、ラグビーは高校までという考えを決定的なものとしてしまう。
その後、彼は1年間の浪人期間を経て憧れの早稲田大学に合格し入学を果たす。ラグビーは高校までと決めていたためラグビー部には入部せずに平凡な大学生活を送っていた。勉学に励みサークルの新歓などにも行ってみた。しかし彼には当時の大学生活はどこか物足りなかった。毎日がつらいということはない。しかし、それと同時に楽しいという感情もない。毎日がとても空虚なものに感じられてしまった。
そのとき彼は彼自身のこれまでの人生の大半がラグビーに染められており、ラグビー以外には夢中になれないということに気づかされる。それから彼は都内にあるラグビーのクラブチームを見つけそのチームの練習に参加させてもらうようになる。そのクラブチームには早稲田ラグビー部のOBも在籍しており、ラグビー部についても多くのことを聞くことができた。そこで彼が知ったのは2年入部の存在である。多くの大学の部活動ならば新入部員は大学1年生に限られるが、早稲田大学ラグビー蹴球部の場合は何年生であるかはさほど重要ではない。2年生であっても入部の資格はあり、入部した際にはほかの新入部員同様ラグビー部の中では1年生として扱われる。
この事実を知り、彼はもう一度ラグビーに挑戦することを決意する。早稲田大学ラグビー蹴球部には新入生に対する入部テストのようなものである新人練と呼ばれる練習がある。この練習は想像以上に厳しく生半可な覚悟では到底乗り越えることはできない。彼は挑戦すると決意したその日から新人練に向けた自主練を開始した。
自分は一度リタイアしている人間であり失うものはもう何にない。自分がどんなにダメでもいいからとにかく一生懸命、全力で我武者羅にやろうと決めていた。毎日10キロ走を行い、合間に1.5キロ走も5本行うという日々を繰り返していた。
彼が新人練で見せた一周走と呼ばれるランメニューを、何本もトップでゴールする姿に鼓舞された同期部員も少なくないだろう。彼は新人練を乗り越え入部を果たした。だが、彼にとってこれはスタートラインに過ぎなかった。再スタートを果たした彼は、今も毎日の練習にひたむきに取り組み日々挑戦し続けている。
彼には、これから早稲田ラグビーを目指す後輩たちに伝えたいメッセージがあるという。
「早稲田ラグビーは私の人生の中で最もといっても過言ではないくらいの挑戦である。今いる世界は非常に厳しい世界である。しかし、自分のような部員がいることが早稲田ラグビーのよさではないだろうか。早稲田ラグビーへの挑戦に早い遅いは関係ない。うまく言葉にならないが、自分の経験が何か後輩たちへのメッセージになればうれしい」
彼のような選手が同期にいることが誇らしい。このような選手こそが早稲田ラグビーの象徴といえるのではないか。どんなバックグラウンドを抱えていても挑戦する気持ちさえあれば拒むことをしないのが早稲田ラグビーである。